本邦研修での広島訪問

2015年3月12日

本邦研修では名古屋を拠点として研修を行ったのであるが、期間中、地方都市の裁判所見学とコミュニティー調停の実情を見学するために松山も訪問した。名古屋から松山までは飛行機を使ったのだが、帰路は松山から船で広島に渡り、広島から新幹線で名古屋に戻ることとした。
平和記念公園、広島平和記念資料館に立ち寄る目的である。
私は、平和記念資料館には30年近く前、2度訪れたことがある。一度目は、小学生のころ母の実家が広島近くにあったことから祖母らと同伴で広島市内に買い物に行った際に、二度目は、中学校の修学旅行で神戸から広島を経て別府温泉へ行くというルートの途中で立ち寄ったはずである。当時の思い出として、原爆の熱戦で銀行の石段に焼き付いた「人影の石」を見て衝撃を感じたのと、祖母が資料館の展示の前で突然目を赤くして「かわいそうに」とつぶやき、どう話しかけていいかわからず立ちすくんだという記憶が残っているだけであって、はなはだ幼稚きわまりない感想ではあるのだが、実のところこの資料館を小中学生に見学させる目的の大方はこれで達しているのかもしれない。
ところで、今回、モンゴルの研修員を平和記念資料館に案内することについては、当初、私はあまり賛成ではなかった。このような悲惨な展示を見せることにどのような意味があるのか、もっとざっくばらんに言えば、一応は戦勝国であるモンゴルの人に今更のように敗戦の直接のきっかけともなった原爆による惨禍を提示することについて、いかにも被害者面といった感じがして、広島訪問には懐疑的だったのである。
しかし、それは誤りであった。広島のことを、モンゴルの人は、誠にお恥ずかしいことであるが、私以上に詳しく知っており、私に尋ねる質問も、当時の広島の都市機能や人口、原爆の被害者数など相当の知識を必要とするものだった。さらに、周知のとおり平和記念公園内の「原爆の子の像」の周囲には多数の折り鶴が捧げられているのであるが、この折り鶴の経緯、つまり佐々木禎子氏の生涯や思いについて、驚くべきことにモンゴルの研修員全員が理解していた。そして、像の前で厳粛に哀悼の意を表してくれたのである。
これには少し説明が必要かもしれない。モンゴルでは、1970年代、佐々木禎子氏の心情と鶴を折る様子を歌った「ヒロシマの少女の折りづる」という歌が流行し、現在でも義務教育のテキストに掲載されているのである。
研修員全員が「原爆の子の像」の前で突然この歌を歌いはじめたとき、私は、微塵も工夫のない表現だが、心に響く暖かい追悼の思いを感じた。そして、地に足付かず観念だけで物事を考えていた自分を恥じた。

私は、この広島訪問については、プロジェクトニュースに書くべきかどうか迷ったのである。というのは、ODAとして貴重な税金を使って法整備支援、本邦研修を行っているにもかかわらず、その金で研修以外の物見遊山をするのはけしからんという意見があることを知っているからである。こういった見解は一面においては正論であることに疑問の余地はない。しかし、何千キロも離れた外国から日本の支援で来日した人に対して、研修に付随して日本の文化や、戦前・戦後の歴史といった現在の日本に至る道程の一里塚ともいえる現場を見てもらい、いくばくかの感想を抱いて国に持ち帰ってもらうことにも一定の意義があるのではないかとも思う。調停の知識を吸収してもらうことはもちろん不可欠なのであるが、それ以外の一切を余分な活動として否定することは、かえってせっかく得られるはずの共感や感動の機会を失わせるという意味で、無駄を生じることにはならないだろうか。
立場をわきまえない物言いになってしまったが、おそらく研修員全員にとって、思い出深い研修となったという話である。

JICA専門家 岡英男

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出典:JICA調停制度強化プロジェクトフェーズ2「プロジェクトニュース」2015年3月15日