ある土曜日

友人の社長さんとカレーを食いに行った。本当に友人なのかと問われるとよくわからないが、ふつうに家族の話もするし気軽にお互いに電話もできるからまず友人でよいかと思う。社長と言ってもいろいろである。財界人というほどでもないが、昨日今日できた会社の社長でもない。大阪に百年ほど根を張っている会社の社長さんである。百年続く会社だから偉いということもないが、百年続いているのは何かしら良いところもあるのだろう。

社長さんとはモンゴルが縁で知り合った。知り合ってから何年になるのかよく覚えていない。ときどき飲み会や食事に誘われる。しかし私はお酒を飲まない。お酒を飲まない人間にとって、飲み会というものは会話の合間にひたすら烏龍茶かコーラを飲み続ける会である。烏龍茶ならまだいいが、コーラを何杯も飲むのは五十を超えて痛風や高血圧が出ている体にはあまり良くないはずで、だから私はほとんど飲み会に行かない。尤も、友人というからには社長さんのことが嫌いというわけでもない。空港で偶然会えば一緒にラーメンを食う。ラーメンも痛風や高血圧には良くないであろうが、好物だから仕方がない。社長さんとの付き合い方というのは、私にはそのくらいがちょうどよいのである。今回も、誘われていつもなら断るところをうっかり承知してしまった。人間というものは暇になるとろくなことをしない。「行きますよ」と言ってしまったのは私の不徳の致すところだ。

 

当日、自転車で本町の会社へ行った。私は大阪市内ならどこに行くのでも大概自転車である。自転車といっても色々だが私の自転車はいわゆるママチャリである。私のママチャリは前かごが壊れて取り外してあるので一見ロードバイクのように見えなくもない。颯爽と走っているように見えても、実際はママチャリなので乗っている本人はさほど颯爽という状態でもない。毎日、中津の自宅から大正の事務所、大正の事務所から淀屋橋の裁判所と右往左往している。だから、本町あたりに行くのは全く苦にもならない。あまり乗り気ではないが、約束は約束である。本町なら20分程度とみて30分前に出発したが、途中でなぜか道に迷ってしまった。結局、時間ちょうどに会社に到着した。余裕をもって動くのは大事なことである。

何年か前に一度訪問したことがあるが、その頃より入口が立派になっているように見えた。入口には内線電話が置いてあり、氏名や面会理由を書けという。氏名は書ける。面会相手も社長さんだから書ける。ところが面会理由が困る。社長さんに会うために来たのであるが、会う理由はない。商談でもなく、相談でもなく、苦情でもない。ただカレーを食いに来ただけである。カレーを食いに来たと書くと私が怪しい人物とみられるような気がして気が引ける。担当部署という欄もあったが、カレーを担当するのがどの部署であるのか分からないし、そもそも社長という部署もないようである。どうしようかしらと私が困っていると、ベテラン社員らしい中年男性が来て、「どなたにご面会ですか」と尋ねる。「社長さんです」と答えた。それだけでは心もとないので、「弁護士の岡です」と付け加えた。弁護士として来たわけではないが、弁護士と名乗るのが一番話が早いのである。するとすぐ社長室へ通された。社長室でしばらく雑談した。何の話をしたか覚えていない。たぶん噂話や近況を話したのであろうが、雑談というものは覚えていないから雑談なのである。

やがて社長さんが、「行きましょうか」と言うので、一緒に近くのカレー屋へ向かった。店には飲み放題のコースがあった。私はお酒を飲まない。社長さんも車で来ているから飲まない。それなのに飲み放題である。店にしてみればわけのわからない客であろう。2人でマンゴーラッシーを注文した。私はラッシーだけでなくコーラやジュースも注文したから多分予定通り体は悪くなっただろう。カレーは特にうまくもなかったしまずくもなかった。この種の店は大概そういうものである。

カレーを食いながら社長さんが娘さんの話を始めた。娘さんは大阪の歌劇団に入って2年目だという。近々公演があるらしい。毎日遅くまで稽古をしているという話であった。舞台の人間が苦労するのは当たり前である。しかし親が娘の話をするとなると、当たり前の話でも少し違って聞こえる。なるほど大変らしい。その日はそれだけのことで、前かごのないママチャリで帰宅した。帰路、なんだか腹が減ったのでラーメンを食って帰った。

 

翌日は土曜日で、事務所に行って仕事をしようと思ったのだが、すぐに手を付けられそうな仕事はなかった。あるといえばあるのだが、私がいまからやろうと思える仕事がなかったのである。私の事務所は掃除も行き届かず本や段ボールが散らかっているからそれなら片づけでもすればとも思うのだが、私にとっては片づけほど手を付けるのが難しい仕事はないのである。

どうしたものかと思っていると、昨日の社長さんの話を思い出した。ネットで検索すると娘さんの公演は今日が初日で数時間後に開演らしかった。事務所にいてもこの様子なら昼寝するだけのことである。無論、昼寝は大事だが、朝から来て昼寝だけして帰宅するというのもなんだか締まりがない気がして、チケットを取ることにした。VIP席と一般の席があってどちらにするか迷ったが、思い切ってVIP席を取った。私は、舞台というのは良い席が高いものであることを知っているから、こういうことには思い切りがよいのである。とはいえ、チケットは結構な値段がしていたから昨日社長さんからカレーをおごってもらっていなければ買わなかったかもしれない。しばらく事務所でお茶を飲んで時間をつぶしてから、ママチャリで心斎橋の劇場に赴いた。少し早めに出発したのであるが劇場の場所に迷ってしまい、到着したのは開演直前だった。

 

劇場の入口でまた迷ったが、なんとか席に着くことができた。私の席はVIP席という名前であったが後ろのほうであった。比較的年配の客が多いようだったがその点は他人のことは言えない。私は観劇の途中で寝てしまうことが多々あるのだが、居眠りする間もなく舞台が終わっていた。演目の後で写真撮影の時間となったが私は携帯電話を出さなかった。写真を誰かに見せるあてもないし見せたところで説明するのも面倒だからである。最後に客がピンク色の小さな傘を持参して応援するところだけは少し閉口したが、一緒にやれば楽しいだろうことは分かった。娘さんの踊りは華があって面白かった。舞台のことはよく知らないが、距離や間の取り方ひとつずつにも気を配ってあるように見えた。その場の思い付きで行った舞台がこれくらい楽しめたら上等である。

ママチャリで事務所に戻る途中、社長さんから電話があったので「お上手でしたよ。面白かった。」と伝えた。ラーメンを食っていこうかとも思ったがやめておいた。

2026年6月13日