モンゴル語ができるかと聞かれることがある。
できない、と答えると、相手は少し困った顔をする。困るのは私ではない。聞いた方が困るのである。聞いた以上は何か返事をしなければならない。しかし、ただ、そうですか、とも言いにくい。十五年以上もモンゴルにいる弁護士がモンゴル語ができないというのは、やはり具合が悪い。
ずいぶん前になるが、「モンゴル語ができないことはあまり言わない方がいいですよ」と若い弁護士に忠告されたことがある。その人は大きな法律事務所から外務省に出向していた。顔つきも考え方もきちんとしていて、私のように何でも思ったままに言ってしまう者とは違う。国際関係の仕事で語学ができないと言うのは、自分から靴の底が抜けていますと言って歩くようなものだから、忠告はもっともなことである。
それ以来、私は少し言い方を変えた。「金を遣うことはできます」と言うようになった。これは嘘ではない。モンゴルで飯を食うことはできる。タクシーにも乗れる。ホテルにも泊まれる。コンビニで水も買える。市場で値段を聞くことも、まあできる。空港から市内に行き、市内から空港に戻ることもできる。つまり、金を払う側としてはどうにか生活できるのである。ところが、金を稼ぐ語学はない。法律相談はできない。契約の交渉はできない。役所の説明をそのまま理解することもできない。会議で議論をすることもできない。
金を払う側と金を貰う側には厳然たる違いがある。金を払う時には、相手も売りたいから、多少こちらの言葉がおかしくても補ってくれる。こちらが水を指差せば水が出る。勘定書を見せられれば金を払う。しかし、相談はそうはいかない。法律家として金を貰う時には、指を差して済むわけではない。相手の話を聞き、意味を取り、嘘か本当かを見分け、どこに危険があるかを考えなければならない。これを「ありがとう」「これいくらですか」だけでやるのは、いくら何でも無理である。
英語も似たようなものである。飛行機の中で、客室係が何か聞いてくる。これはだいたい予測できる。ビーフかチキンか、コーヒーかティーか、水がいるか、そういうことである。私はチキンを頼もうとして「I am chicken」と言ったことがある。客室係は偉いものである。乗客が自分を鶏だと言っても顔色一つ変えずに鶏肉を出してくれる。あれは英語が通じたのではない。状況が通じたのである。入国審査も何とかなる。どこに泊まるのか、何日いるのか、仕事か観光か、帰りの航空券はあるのか。聞かれることはだいたい決まっている。こちらも答えを用意している。向こうも早く次の人に進みたい。だから通過できる。しかし、これで英語ができると思ってはいけない。私は自分が鶏であることを申告する程度の英語しか持っていない。
モンゴルに通い始めて最初のころは、モンゴル語を覚えないことについて、少し厳しいことを言われたこともある。「なぜ覚えないのか。覚える気がないのか。モンゴルを馬鹿にしているのか」そう言われると、返す言葉がない。馬鹿にしているわけではない。しかし覚えていないのも事実である。覚える気がまったくなかったとまでは言わないが、十分にあったとも言えない。つまり、言い訳のしようがない。ところが、十年を越え、十五年を越えると、誰もそういうことを言わなくなった。これは私の努力によって語学が向上したからではない。反対である。まったく向上しなかったから、周囲が諦めたのである。こうなると、誰も腹を立てない。自動車に羽がないからといって怒る人はいない。チーズが歌わないからといって叱る人もいない。この人は語学をしない、というだけのことである。
もちろん、これは自慢ではない。国際法務に関わる者が、英語もモンゴル語も十分にできないというのは、普通に考えれば具合が悪い。ただ、私の場合は、隠してもすぐばれる。英語で話しかけられた時の顔でばれる。モンゴル語で説明を受けた時の目の泳ぎ方でばれる。会議の途中で皆が笑った時に遅れて笑うのでばれる。飛行機で自分を鶏だと言った時点でもう隠しようがない。だから、できるふりをするより、最初から「金を遣うことはできます」と言っておく方がよい。金を使うことはできます。金を稼ぐ語学はありません。大事な話には通訳を入れてください。その代わり、日本語で整理することはできます。これで、どうにか今日まで来た。
考えてみると、私がモンゴル語を覚える代わりに、周囲が私の扱い方を覚えたのである。これは申し訳ないことである。こちらがやるべきことを周囲がしてくれている。しかし、そういう不格好な形でも、長くいるとなんとかなっている。最初は、言葉のできない変な外国人だった。そのうち、言葉はできないが昔からいるのでまあ呼んでおくかという変な外国人になっている。出世したのか、していないのか、よく分からないが、一つだけ確かなのは、私は今でも「モンゴルで金を遣うことはできる」ということである。そして、それ以上のことをする時には、必ず誰かに助けてもらっている。だから、語学ができないというのは、実は一人で威張れないということでもある。それだけは、少しよいことかもしれない。
2026年6月29日
